東本願寺の寺院、愛知県西尾市「隨縁寺(ずいえんじ)」のホームページ // zuienji blog //
仏さま、ご先祖さま、大切な方と心が通じ合う
みなさんの多くは、仏さまに向かってとか、お仏壇の前に座ってとか、お墓の前でとか、じっと手を合わせ拝んでいると、なにか心が落ち着くのではありませんか?これは仏さま、ご先祖さま、大切な方と心が通じたからではないでしょうか?
これは合掌したり、「南無阿弥陀仏」と口で称える、または心の中で称えることによって、自分の心の中に仏さまの不思議な力が働いたからと思うのです。
古代インドでは、右手を神聖なる手=仏さま、左手を不浄なる手=私たち とし、この二つを合わせれば私自身の心と、仏の心が一体になると考え、仏教ではこの合掌を大切にしてきました。
不思議な言葉「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」
「アングリーマネジメント」(怒りのコントロール)という言葉がありますが、この合掌すると心が落ち着くという効果をぜひ日々の生活の中でもでも活かしていただければと思います。
案外怒ったり、イライラしてしまう時、合掌して(しなくても)、「南無阿弥陀仏」とお念仏したりします。そうすると不思議に心が落ち着くものです。
しかし現代人は忙しく、普段はなかなか手を合わせ、お念仏する時間を取ることが出来ないかと思います。それでも工夫次第で合掌、お念仏することは可能です。
例えば一人で運転中でもお念仏を、周りに人がいても、静かに深呼吸して小さな声で「ナマンダブ、ナマンダブ」と息を吐けばいいのです。イラッとした場合は特に効果的です。いつでもどこでも出来る、それが合掌であり、お念仏なのです。
嫌なこと・つらいことが多い毎日ですが、合掌とお念仏によって、心やすらかに毎日をお過ごしいただければ思います。
浄土真宗では
「阿弥陀如来の国土(極楽浄土)に往かれ、そこで仏さまになられた故人を偲び、あらためて阿弥陀如来、仏さまから教えをいただく尊い儀式・機会の場」
と考えています。
したがって、法要では「阿弥陀如来、その他有縁の諸仏・諸菩薩、また仏さまになられた故人」のため、以下のことをしています。
○仏さまや位牌の前を花などできれいに荘厳し、お供え物をおきます。
○僧侶が「お釈迦(しゃか)さまの説かれたお経」を読経(どきょう)します。
○読経後、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の書かれた「正信偈(しょうしんげ)」(偈とは詩文のこと)を、参加者と一緒に唱和します。
○最後に僧侶から、簡単な法話(仏教の教えに関するお話)などがあります。
絶対儲(もう)かるよ!
…これ、詐欺でよく使われる言葉
詐欺師に「絶対に儲かるよ」と言われて、大金をだまし取られるひとがなんと多いことでしょう。なんか怪しいと思っても、「その人を信用したい」というやさしい気持ちが判断を鈍(にぶ)らせてしまうのですよね。「欲に目がくらんじゃあいかん」と誰もが思っているんですがねえ。
「母さん、オレ、オレだよ」
…特殊詐欺多いですよね
昨年から警察より、二,三回「特殊詐欺にだまされるお年寄りが多いから、お寺の方からも注意するようにお伝え下さい」と言って、ポスター、チラシをいただきました。これもお年寄りの「大切な人を守りたい」というやさしい気持ちにつけ込んだ犯罪ですよね。
地元のお寺の方々も「協力しよう」と言ってくれて、昨年の夏にはチラシ1500枚ほどお年寄りのいるご家庭に配布しました。また、昨年の年末(この記事を書いているのは年明けの1月)にも、お寺の掲示板に「特殊詐欺防犯」のポスターを貼りました。
わたしも何年か前に「あやしげな電話」に騙されそうになりました。その場に息子が居たから良かったのですが…。けっして他人事ではありません。
「あの人は良い人だ、悪い人だ」、
「優秀な人だ、ダメなやつだ」とか
だいたい人の評価というのは、そもそも評価する側の都合で判断しがちです。つまり、評価する側にとって都合が良ければ「いい人だと」と判断し、都合が悪ければ「悪いやつ」と判断します。
会社の上司が部下を評価する場合、会社や上司にとって有益かどうかでその人を「優秀かどうか」を評価するわけです。それはそれで仕方がないかもしれませんが、その人の本当のすがたを正しく評価しているわけではありません。
「私はなんて不幸なの」
…それ、あなたの思い込みです
たいがい「幸せかどうか」は他人と比べて判断しているのではないでしょうか?しかし落ち着いてよく考えてみると、あなたには「幸せや、幸運なできごと」で満ちあふれていることに気づくはずです。
息をしていること、朝目覚めること、食事をいただくこと、そして仕事があることなど、すべては幸運な出来事の連続です。でもそんなこと「当たり前」と思ってはいませんか。
主観的判断・偏見(有無の邪見)から逃れることはできません
生きている限りわれわれの勝手な判断や思い込み、つまり「有無の邪見」から逃れること出来ません。しかし「平等覚(阿弥陀如来)に帰命しよう」と自覚することはできます。
そうすれば、目の前にある出来事への判断も、また違ったものになるはずです。煩悩に眼(まなこ)が曇り、真実が見えない場合が多いのです。「見落とし」なんか世間ではいっぱいあります。
※「平等覚に帰命」=「南無阿弥陀仏」のこと、
つまりお念仏しなさいということです。
「真実を見きわめることは難しい」ことなのです。「その難しさに気づきながら生活する」ことが大切だということです。
小欲知足 …「足るを知る」ことです
世の中は「欲望を煽(あお)る」世界です。人間の欲望には限りがありません。どんなにたくさんの冨や財宝を手に入れても、「乾(かわ)きった喉(のど)が水を欲する」ように「もっと欲しい」と思うようになります。そして、それが手に入らないと人はさらに悩み苦しんでしまうのです。
人は他人と比べて、自分自身を評価するしかない生き物です。だから、つい他人と比べて「自分ははなんて不幸だ」と考えてしまいます。だからなかなか「今の自分に満足できない」のです。
「みなさんのおかげで、なんとか今の自分がある。ありがたい」と思えば、いろんな欲望に惑わされることはありません。
「欲が少なければ、十分足りていることが分かり、いまの自分に満足できる」のです。「息ができるだけで幸せ」と答えたのは晩年の水木しげる(漫画家、「鬼太郎」の作者)でした。
自利利他 …自ら功徳を積み、他を救済する。
「布施」は自利利他行のもっとも簡単な行為の一つです。他人を助け、その人が幸せな気持ちになれば、自分も幸せな気持ちになります。布施をしましょう。
と言っても「無理な布施」は長続きしませんし、自分自身が苦しくなって、それは「幸せ」とは反対な気持ちになってしまいます。また、布施の見返りを期待してはいけません。見返りを期待するのは布施とは言いません。
ところで、布施には以下の財施と無財施の二つがあります。
(1) 財施(文字通り経済的な布施行) 「お賽銭」も仏様への大切な布施です
お金や、物で無理のない範囲で支援することです。「無理かな?」と思ったら、やめればよいのです。中には詐欺まがいの寄付依頼もありますから注意しましょう。
(2) 無財施…無財の七施 「顔・眼・愛語・身・心・床・房」(がんがんあいごしんしんしょうぼう)
①眼施…やさしいまなざしを
②和顔施…人には笑顔を
③愛語施…思いやる言葉
④身施…ちょっとした手助け
⑤心施…思いやりの心を持つ
⑥床座施…ひとに席を譲る
⑦房舎施…雨露をしのぐ場所を提供
の七つの布施を言います。
念仏を称(とな)える
…「ナマンダブ」と静かに声を出す
念仏を静かに称(とな)えると、煩悩に迷う自分に気付きますし、仏のこころに気づいたりします。そのおかげで心が安らかになり、また自然と満たされた気持ちにもなり、幸せを感じるようになります。
いつでも念仏はできますが、たとえば目が覚めた時、またこれから眠るとき、布団の中で静かにお念仏を称えると、安心感・幸福感を感じるようになります。ぜひみなさまにおすすめします。