慈円恋の歌(1200年) 続き
さて進退きわまった範念(親鸞)は、なんとか頭をしぼって
箸鷹のみよりの羽風(はかぜ)ふきたたてて
おのれとはらふ袖の白雪(しらゆき)
とよみました。鷹を腕にとまらせた場合、慈円の歌は鷹匠から見て外側の羽についた雪の歌ですが、この場合は鷹匠側の「身寄り=身に近い」羽のことを読んでいます。
これも上皇から褒められ「あっぱれだ」ということで、上皇から親鸞に「檜皮色(ひわだいろ)の小袖(こそで)」が贈られました。
通常ならば、上皇から褒められたうえ、ご褒美まで頂いたのですから誇らしいはずです。ただ親鸞は違っていました。
「もし、歌で失敗したならば、慈円先生の名誉を汚すし、叔父や実家の名誉も汚すことになる。この比叡山延暦寺にとどまる限り、上皇さまなど雲の上の人とのことで、これからもこのような災難に出会うことになる。」と思い悩んだのです。
それに、比叡山はすでに「朝廷付属の宗教省」のような形になり、そこはお役所としての「出世栄達の世界」になっていたのです。中・下流貴族出身の親鸞には、もはや比叡山での世間的な出世は無理な状況になっていました。また、源氏の血筋(母が源氏の娘)を引いているからこそ、「反鎌倉」の機運が強くなった朝廷側から嫌がらせがあるかもしれません。あの歌の件も、親鸞が源氏の血を引いていることを知って、上皇の周辺が親鸞をからかおうとしていたのかもしれません。
もはや親鸞にとって比叡山は修行・研鑽の場所から、悩み・苦しみの場所になっていくのです。