本覚山 隨縁寺

東本願寺の寺院、愛知県西尾市「隨縁寺(ずいえんじ)」のホームページ // zuienji blog //

「鎌倉殿の13人」と親鸞 13

慈円恋の歌(1200年)

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝が亡くなり、いよいよ物語は後半に入りました。さて、このころ親鸞はどうしていたんだろうという話をしたいと思います。

「天下の大天狗」と言われた後白河法皇の後、「朝廷中心の世の中を理想とする」後鳥羽上皇は、貴族の雅(みやび)を象徴する和歌を非常に大切にします。事実、歴史上有名な「新古今和歌集」作成を命じました。

正治2年の秋(1200年)、後鳥羽上皇は「恋」の題で歌を募集しました。そこで、慈円(親鸞の先生)は以下の歌を披露したのです。

我が恋は松を時雨(しぐれ)のそめかねて
 真葛が原(まくずがはら)に風さは(わ)ぐなり

と読んだのです。あまりにもこの歌が素晴らしかったので周囲の嫉妬を買い、上皇の家来の一人が「一生女性と交わらない僧侶がなぜこんな歌が詠めるのか」と皮肉ったのです。なおこの歌は「新古今和歌集」に収められています。

それを聞いた慈円は、「こんなことは歌のことをよく知っていれば造作もないことです。もし信用できないならば、僧侶が全く知らない題でもう一度ご命令ください」と返事をしたのです。そこで上皇は「鷹羽の雪(たかばのゆき)」を題にして読めと言われました。鷹羽というのは、鷹狩の鷹の羽のことです。すると慈円は

雪ふれば身に引きそふる箸鷹(はしたか)の
 たださきの羽や白(しら)ふ成(なむ)らむ

と読んだのです。この歌を持ってきた使いが範念こと慈円の弟子 親鸞でした。

この歌も大変すばらしく、上皇以下近くのものも絶賛したのです。ところがさらに上皇は、使いの親鸞に「歌の名手慈円の弟子だろう、またおまえの叔父も歌知りと聞いている。おまえもこの場で、同じ題で読んでみろ」と命じたのです。(続く)

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