本覚山 隨縁寺

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「鎌倉殿の13人」と親鸞 20(終わり)

「承久の変(1221年)」からあっという間に最終回

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もとうとう年末に終わってしまいました。

ところで「承久の変」のころ、親鸞は関東で活動をしていたのですが、ちょうどそのころのエピソードとして「弁円済度(べんねんさいど)」という話があります。この話は「聖人御絵伝」にも描かれています。

また1224年、親鸞は「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の最初の執筆を終えたとも言われております。(その後修正加筆を繰り返しています)あの北条義時が亡くなった年です。

ところで、「鎌倉殿の13人」の最後は、義時が妻の毒によって体調を崩し、姉北条雅子の前で亡くなっていくシーンでした。大変印象的なシーンでした。これは、義時が「妻の盛られた毒」によって殺されたという噂をもとに、そういう脚本にしたのでしょう。

尊長「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」

この尊長は、「承元の法難(1207年)」で、法然教団の弾圧に手を貸し、安楽坊・住蓮坊処刑の段取りをした人と言われております。また、1221年の承久の変では、朝廷の後鳥羽上皇の片腕として活動するも、敗北後姿を消します。(「聖人御絵伝」の「承元の法難の図」にもこの尊長が描かれています)

1227年、(義時死去から3年後)潜伏先で捕まった時に、上記の言葉を発したようです。本人はこの後殺されることになります。(自害という説もあります)

朝廷側、貴族側によっては憎き義時です。「あの乱暴な鎌倉のことだ。きっと義時は殺されたのであろう」という彼らの邪推から生まれた噂(うわさ)なのでしょう。

ところで後鳥羽上皇は隠岐に終生流されました。承元の法難のとき、僧侶を殺し、法然や親鸞を流罪にした上皇や尊長を、親鸞自身はどう思ったのでしょう。

親鸞と北条氏との関わり

本願寺第3代覚如上人が、曾祖父である親鸞聖人の行状を記した「口伝鈔(くでんしょう)」にそのエピソードが書かれtいます。詳しくはこれ

1234年? 関東から京の都に帰る

義時亡き後、名君と言われた北条泰時に執権が引き継がれることになりますが、大河ドラマもここで終わりです。もう次の大河ドラマ「どうする家康」が始まってしまいました。「鎌倉殿の13人」と親鸞の話もこれで終わりです。

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