NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も
畠山重忠の乱(1205年)から和田合戦(1213年)までいっきょに進んでしまいました。この間、法然上人、親鸞聖人の運命は大きく動きました。
1207年、後鳥羽上皇をトップとする朝廷は法然教団を弾圧しました。4人が死刑に処され、8名は流罪となりました。法然は四国へ、親鸞は越後(現在の新潟)に流されました。(
承元の法難もしくは建永の法難)
1211年、この処分は解除されましたが法然は1212年亡くなってしまいます。(80歳)そして親鸞は越後に滞在しながら布教活動をしていた(御伝鈔)とか、いやいったん都に帰ってその後関東に行った(正明伝)という話があります。ただ1214年ごろ、つまり和田合戦からしばらくたって関東に妻恵信尼といっしょに行ったことは確かなようです。
京の都と違った辺境の越後、そして刀を平気で振り回す関東での布教活動、暮らしは親鸞聖人の思想に大きな影響を与えたことでしょう。そこには都での風習・価値観などが全く通用しない世界だったのです。