妄念妄執をとどめよというにもあらず
人は生きている限り、妄念・妄執(煩悩)を消し去ることはできません。妄念・妄執(煩悩)はある意味「生きている証(あかし」とも言えます。時代は
末法の時代です。この時代の凡夫(ぼんぶ←われわれ凡人のこと)の救われる道は「阿弥陀如来に助けてもらう」=「弥陀の他力本願にすがる」しかないのです。
蓮如上人のお書きになった「
猟漁(りょうぎょ)の御文(おふみ)」を紹介します。
まず。当流の安心(あんじん)のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、妄念妄執(もうねんもうじゅう)のこころおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ。かかるあさましき罪業(ざいごう)にのみ、朝夕(ちょうせき)まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の…(以下略)
御文を意訳すれば…
まず親鸞聖人の教えの趣旨は、自分のこころに起こる煩悩を無理に消そうと思わないこと、だから商売でもうけても良いし、一生懸命働いてお金を稼いでも良い。狩猟すること、魚を取ることだって良い。(
さらに現代風に追加すれば、)あれこれと、
世間の幸福論に振り回されたって良いのだ。
こういう時代、良いとか悪いとか考えずに、あれこれと世間に振り回され、あたふたと生きているわれら凡人を救ってくださる阿弥陀如来の力を信じて…(途中略)…、ナマンダブ、ナマンダブと念仏すること。これこそ、末法の時代の「安らかなこころを持った念仏の行者(仏道の修行者)」というべきものだ。
ということでしょうか。
「幸せ」は「安心(あんじん)」つまり「安らかな心」(やすらかなこころ)から生まれるものなのです。(参照 *)
御文(おふみ):蓮如上人が門弟の教化のために、真宗教義の要を平易な消息(手紙)の形式で書きあらわされたもの。西本願寺では御文章(ごぶんしょう)と言う。